30代 中国語を極めるまでの記録

語学学習の進捗・気づきなどを記載していきます

ずっと悩んできたこと

こんにちは。

久しぶりに更新します。

 

最近はずっと活字の世界に没頭していました。

ひたすら内省を深めて深めて、出てきた感情が、

「外の世界に出たい」でした。

といっても大したことはしておらず、

友人と会ったり、屋外作業のアルバイトをしたりといったことをした程度です。

あとは溜まっていた諸手続を処理したりなどですね。

中には長年の懸案事項だったものもあり、スッと肩の荷が下りた感覚です。

 

 

さて、掲題の件ですが、

私には幼少期より悩んできたことがあります。

ここでは具体的にそれを書くことはしませんが、自分の中ではとても大きな事柄です。 

やりたいことが出来なかったことも、会社を辞めたことも、いまこうして半分引きこもりのような状態で生きていることも、全ての根っこにこれがあります。

 

アザ・・・

生まれた時からあるこのアザは私にとっては普通のことだった。

でも、生きていく内に人の目が私を「不幸」だと教えてくれた。

そして、何をするにもこのアザが私の行動を・・・考えを不自由にさせた。

 

『すばらしきかな人生』(香川まさひと)

 

この気持ちは痛いほど分かります。

初めて読んだときは色々と昔を思い出して身につまされる思いでした。

今でも私の抱える苦しみは変わりません。

ですが、日々そのことだけを考えて、それに人生を縛られたくはないという気持ちが強くなっています。

いつまでも若くありませんし、いまの状態は正直あまり楽しくないですからね。

 

完全に良くすることは出来なくとも、

それを乗り越える力、乗り越えようと具体的な行動を起こす気力が自分にはあるはずです。

そう、何か具体的な行動を起こしたいですね。

 

かといって一時の高揚感や万能感に身を任せて選択をするとあとで苦しいことになることも経験済みですので、既にやったことがあって厳しかったものは避けようと思っています。

自分が無理なく出来ることの中から選ばないといけません。

それが難しいのですがね。 

 

それにもうすぐ夏が来ます(もう来てるのかも)。

夏はやはり外に出た方が楽しいです。

今年の夏が充実したものになることを願って。

 

今回はここまで。

それではまた。

やりなおし高校数学

こんにちは。

お久しぶりです。

 

一昨日から高校数学の問題を解いています。

特に目標をもってやっているわけではないですが、単なる暇つぶしと脳トレです。

 

最初は赤チャートを用いてやっていました。

現役生の頃は学校指定の青チャートを使っていて、

赤は会社員時代に数学のやり直しのために購入したものです(で、積ん読していました)。

 

昔の赤チャートはそれはそれは難しかったそうですが、

何年か前に方針が変わって非常に取り組みやすくなったそうです。

実際、文系の私がやっていても特にひっかかることなく進めています。

当時使っていた青チャより分かりやすいかも知れません。

数IAは既習ということもあり二日間で60ページほど進めました。

 

しかしながら、量がとても多いのと、インプット型(解法をひとつひとつ覚えていく)であることから既に飽きがきてしまい、いまはまた机の横に置いています。

 

個人的には数学は問題(出来れば入試問題)をどんどん解いて行きたい方なので、

何か良いのがないかなと思い探していたら、ありました。

 

『新数学スタンダード演習』、通称「新スタ」です。

私のものとは発行年が違いますが、中身はほぼ同じです。

スタンダードという名前ではありますが、これをしっかりやればかなりの大学に対応出来る程高度だそうで、確かに教科書で習ったようなレベルではありません。

 

ですが、何を書いてるのか全く分からないというほどでもなく、

ある程度時間をかければそこそこ解けます(時間制限は一旦無視しています)。

初見では7割程度正解出来ました。

もちろん、厳密に言えば論証がしっかりしていなかったりするのでしょうが、

一応答えが一致していれば正解としています。 

 

ちなみに初見で7割は結構解けている方だそうですが、

大学以降数学にはほぼ触れてなかったのに不思議です。

現役時代でも、恐らく4割も解けなかったのではないかと思います。

大人になってからの趣味で中学受験の算数の難しい問題を解いたりしているので、そこで得た着想や思考方法が役立っているのかも知れません。

特に図形問題を好んで解いており、発想力やイメージ力は色々な勉強をするときにも役立っているように感じます。

 

私も一応中受をさせてもらいましたが、算数はそんなにしっかり学んでいませんでした。

大人になってから算数の問題を解きながら、「これって高校数学に繋がる内容だなあ」と思うこともしばしばで、中受算数には数学のエッセンスが詰まっているのだと実感しました。

中受の算数を通ってなくとも大学受験の数学は解けるようになりはしますが、やっていれば習得スピードが全く違ってくるのでしょうね。

中受ガチ勢が大学受験で強いのも納得です。

 

さて、新スタについて、いまのところ一応解けてはいますが、まだ問題を解くための基礎的な道具が不足している気がしますので、新スタの下位互換の『入試数学の基礎徹底』をまず仕上げてから再び新スタに戻ってこようかなと思います。

基礎徹底の方では、本番の入試からA問題ばかりを集めて載せているそうで、今から解くのが楽しみです。

ちなみに新スタはB問題中心、後述の新数学演習はC問題中心になるようです(Dが最高難度)。

 

新スタが仕上がったあとは、『新数学演習』という更に難しい問題集に入っていきたいと思います。

今手元にあるので軽く見てみますと、新スタからは明らかに難度が上がっていますね。

部分点ももぎ取れないという程ではないですが、ほとんど完答出来ないでしょう。

新数学演習の方はマスターすれば東大理系数学もしっかり解けるようになるそうで、いつかそのレベルまで到達したいなとは思っています。 

 

 

ちなみに、数学と並行して物理の勉強もやっています。

最初は『物理のエッセンス』という参考書を使っていたのですが、物理未履修の自分には少し難しすぎました。

なんとか食らいつけないこともないですが、流石に基礎知識がなさ過ぎて極めて非効率です。

 

とりあえず自宅に『宇宙一わかりやすい高校物理』という本がありましたのでこれで勉強しています。

こちらは名前の通りわかりやすいですね。

これでどこまで到達できるかは分かりませんが、取りあえず読み進めます。

でもやはり問題集が欲しいので、『リードα』という定番の問題集をポチりました。

届くまでは宇宙一の方をチビチビ読んでいきたいと思います。

 

そして物理は数学とはまた解くときの感覚が違いますね。

いまは手探りの状態です。

物理の出来る人に聞くと、あまり深く考えすぎず色んな物理的なモデルを「こういうルールなんだ」と一つ一つ習得していくことが大事なのだそうです。

何が正しいか分かりませんが、やれることをやっていこうと思います。

 

また進捗があればご報告します。

今回はここまで。

それではまた。

自分のやってきたことの棚卸しをしてみた

こんにちは。

 

ここ数日、会社員時代や無職時代と、これまでやってきた活動をWordでまとめる作業をしています。

特に誰かに見せるというわけではないですが、自分の中で一度整理をしておく目的でやっています。

あまり冗長にしたくないのでごくごく簡潔にですが。

 

 

そして書きながら色々思い出しましたね。

まず会社員時代のこと。

思い返すとあっという間に思えたプロジェクトも書き出すと案外期間としては長かったり。

一度も逃げたりサボったりすることなくよく真面目に頑張ったなと。

他には厳しい時期に支え合った元同僚のこと。

これからも大事にしたい財産です。

 

逆に、給与は据え置きの状態で責任と実務上の負担だけがあまりに大きい役職を背負わされたとこもありました。

当時から「これってやりがい搾取では?」と感ずること大でしたが、そういったことは退社後もかなりの期間心の中に残ってしまうこととなりました。

しかし、少し時間の経過した現在では明確に「やってよかった」と思えます。

いま転職活動をしていても、先方の提示してきている要件とよほど乖離しているとかではないかぎり書類で落とされることはありませんし(社会全体が人手不足というのもあり)、なによりその経験が自分の血肉になっています。

私も考え方が少し大人になり、上司や会社からの無茶振りによる成長も会社員であることのメリットだったと考えられるようになりました。

少なくとも完全燃焼した20代の時期に後悔は一切ありません

 

 

そして無職期間中のこと。

自分の中では中国語を少しやったりしただけで何もやってこなかったと思っていたのですが、書き出してみると結構色々なことをやってきたことを思い出しました。

テスト勉強はしたものの結局受けなかった資格試験や、書類選考後の課題テストや初期研修で落ちた会社など、すっかり忘れていたことが多くありました。

案外多くのことに挑戦しようとしていたのだなと。

そういう自分を少しだけ褒めてあげる気持ちが出てきました。

 

 

ここで一つ思い至ったのは、世間は結果を求め評価しますが、

自分で自分を認めたり癒やしを与えてくれるのは、その対象にどれだけの時間や労力を費やし、いかに戦ったのかというプロセスにあるのだということです。

つまりそういったことが本物の自信になるのだということに改めて気付きました。

これは大きな心の支えにもなります。

 

とにかく動くこと。

自分は勝っても負けても面白い、つまり挑戦する姿が見ていて楽しい人間、

そういったことを思い出すことが出来ました。

みなさんにも箇条書きで良いので自分がやってきたことをまとめることをお勧めします(コツは簡潔にどんどん書いていくことで、思った以上に色んなことが出てきます)。

 

最後に、最近深く感じ入った曲を貼ります。

とうの昔に死んだと思っていた自分の中の何かが生きていたことを知った思いです。

やはり音楽は良いものですね。

youtu.be

 

 

今日はここまで。

それではまた。

「世界」と断絶した日本の英語教育

こんにちは。

朝早く目覚めてしまったので昨日に引き続き記事を書きます。

 

 

本日とあるサイトを読みながら以下のような英文に遭遇しました(若干改変してます)。

Recognizing the rapid globalization of markets and the increasing difficulty small businesses face in reaching international customers has driven the development of our platform.

主語がやたら長く、私が英語を習った学生時代には「頭でっかちな文」として悪文の典型とされたような文章です。

こういう文章は「We recognized the rapid globalization of markets and...」のような形に訂正されていました。

 

しかし、ある程度英語が分かるようになり、また普段から相応の英文に触れている今改めて考えてみると、それほど不自然な英語に思えません。

むしろ状況が100%伝わる自然な文章のように思えます。

訂正された形の文章の方が、定型的で無味乾燥であり、本来その文章が持っていたニュアンスや味を消してしまっています(そういう定型表現が好まれる場合もあると思います)。

 

要するに全ての表現はある型があってそれに一致しているか乖離しているかで正誤が判定されるべきではなく、目的によって自在に形を変えていくべきものだと考えます。

 

 

これはむかしYoutubeで見かけた動画ですが、

当時東大受験生だった東進の今井宏先生が、駿台伊藤和夫氏から

「Career womanはキャリアウーマンではなく職業婦人と訳しなさい」という指導を受けたという話がありました。

キャリアウーマンと職業婦人ではニュアンスが全く違う、前者はNYのオフィスビルの高層階で経済を相手に戦っているAmandaかJenniferで、後者は工事現場のプレハブ小屋で現場監督相手にお茶くみをしているタケかトメかクマのはずだ、という趣旨の反論をしたそうですが、「屁理屈を言うな」と受け入れられなかったそうです笑

 

 

こういった例は英語だけではなく、他の分野でも枚挙にいとまがないのではないでしょうか。

伊藤和夫氏のような大先生の指導ならば無条件に受け入れてしまう気持ちも分かります。

実際にそれをこすることである程度長期に亘り成功出来てしまう場合もあるでしょう。

しかし時代や状況が変わったときには途端に対応が出来なくなってしまう脆さがあります。

これは日本人の典型的な負けパターンでもあると思います。

 

先人が打ち立てた法則は確かにそれはそれは貴重で有用なものだと思います。

しかしそれを金科玉条にしてしまっては毒にもなりうるという話です。

そうならないためには、何事もアップデートが必要でしょう。

そして定期的なアップデートのためには世界と接触する必要があると。

 

タイトルにある「世界」とは世界の英語教育という意味ではありません。

世界のあらゆる人や情報のことを指します。

本来言葉というのはそれらと繋がるためのものなのにそこから断絶してしまっているからいつまで経ってもアプデが入らない。

少なくとも日本人の英語にはその傾向が強いように思います。 

 

ちなみに第二外国語ではこの傾向は弱めかも知れません。

もちろんその言語に興味を持っている人限定ですが、中学高校の英語秀才よりも生の言葉に触れようとする姿勢が強い人が多いように思います。

考えられるのは、授業や試験のためではなく実際に学校でネイティブと触れ合う中でその国の言語や文化に興味を持った人が多いからという理由が挙げられるでしょう。

 

言葉は巧拙よりも姿勢が大事、というのを改めて認識しました。

以上、自戒の念も込めて。

 

それではまた。

一番欲しいものは何か

こんにちは。

半年ぶりの更新になります。

 

更新をお休みしている間に色々なことがありました。

新卒で入社した会社の同期と数年ぶりに会って話したり、

家族との時間を過ごしながらゆっくりと考える時間が持てました。

仕事のこと、家族のこと、そして自分の人生のこと。

 

 

世の中がこれだけ複雑になってきて、自分がどう振る舞えば良いか分からなくなっていたときにこちらの動画を観て考えました。

自分の一番欲しいものってなんだろうか、と。

 

youtu.be

 

自分の能力がごくごく平凡であることは年を重ねるごとに実感します。

自分の才覚だけを頼りに真に自由に世の中を渡って行くことはどうやら自分には難しいということにも気付いていきます。

あくまで一般社会の中で居場所を見つける必要があるということに。

 

そうすると必要になるのは選択と集中です。

今回のテーマでいうと、本当に欲しいものを知ることです。

以下に考えたことを記します。

1.絶対に譲れないもの

・安定した精神状態で生活・仕事が出来ること

 これは一番大事ですね。

 心の平安が保てるなら多少給料が安かろうが社会的地位が低かろうが良いと思えます。

 子供が出来たらまた考え方が変わるかも知れませんがいまはそう思います。

 根本的な部分で不安やストレスがない生活を送ることが出来たら、それ以上のものはありません。

・幸せな家庭をつくること

 こちらは「家族との時間が持てること」と置き換えてもいいかも知れません。

 他の人は分かりませんが、お金よりも仕事よりも良好な人間関係こそが心を満たしてくれると年を取るごとに感じます。

 若い頃は「人間関係なんて」という感じだったのですが。

・仕事における自己実現

 仕事は第一の優先事項でないものの、自分の存在意義を確認させてくれる大事なものでもあります。

 他人からの評価というより、あくまで自分で自分の価値や努力を認めてあげられるような生き方をしたいと思っています。

 要は自己満足です。

 自分のために自分の満足いく仕事をしたい、そう思っています。

 

2.必ずしも必要でないもの(=なくても良いもの)

・仕事における承認欲求

 こちらは前述の自己実現とは似て非なるものです。

 20代の頃は他人から評価されたいという気持ちが行動の根っこにありました。

 当然いまでもそういう部分はありますが、その頃よりはずっと小さくなりました。

 どうしてだろうと考えると、明確な理由がいくつか思い浮かびました。

 一つは仕事における承認欲求は20代でかなり満たされてしまったこと。

 もう一つは、結局人は人を正しく評価出来ないということを、実際に高く評価される側になって身を以て実感したからです。

 本当に価値を理解した上で評価出来る人なんて殆どいません。

 私の場合もそうでしたが、高く評価されたとしてもそれは多くの場合過大評価に過ぎません。

 逆に少しでも風向きが変われば白が平気で黒に変わる、そんな世界です。

 そうであるならばそんな不安定なものを追求するべきではありません。

 他人からの過大な評価はいずれ自分を縛るものに変わります。

 それよりも自分の中に何か確固たるものを持てるようになりたいです。

 

・お金

 お金は重要ですし、まだまだ人生に必要なお金を稼ぎきってはいません。

 ネットでFIREを達成した方の記事などを読むと、素直に「羨ましいな」と思う自分もいます。

 ですがあらゆる物を犠牲にしてでも自分がそうなりたいかと言われると微妙なところです。

 結局お金の優先順位は低い人間なのかも知れません。

 物欲もそんなにありませんからね。

 お金に関しては使い方の上手い人間になりたいと思っています。

 使い方の上手い方は稼ぎ方も上手いのでしょうけどね。

 

 

以上、つらつらと今の思いを書いてみましたが、

この件についてはしばらくまた考えてみたいと思います。

仕事についての記述がどうしても多くなってしまうのは根っからの仕事人間故か、それともいまの状況がそうさせているだけか。

やはり今一番欲しいのは仕事かも知れません(涙)

 

考えるのも良いですがそろそろ仕事につながるアクションを起こしてみたいですね。

一度引きこもると極端にフットワークの重くなる私の背中を押してくれる友人達に感謝しながら。

 

本日はここまで。

それではまた。

続けることの難しさと“Hearing”について

こんにちは。

久しぶりに更新します。

 

近ごろ色々とやることが多く、ブログまで手が回らずにいました。

 

中国語を勉強し出したのが約二年前。

そこから一年半弱は一生懸命やっていたと思いますが、

ここ半年は集中的な学習からは遠ざかっています。

継続することの難しさですね。

 

最近はあくまで無理のない範囲で、

中国人の知り合い数名と毎日チャットをするようにしたり

中国語の本を手にとりページをパラパラとめくったりしています。

中国語の種火を消さないように、自分の人生のバランスが崩れないように。

 

一時期のような学習は出来ていませんが、いまはこれでいいと思っています。

運用力もチャットでの会話ならある程度スムーズに出てくるようになっていて、

今のところそれで十分かなと思っていますので。

 

それでも語彙の貧弱さは日々痛感するところで、

今やっているように会話で出てきた都度表現を覚えていくことに加え、

ボキャビルをある程度集中的にやる時間もいつかは必要かなと思っています。

その場合もあくまで短期決戦での形を考えています。

あまり時間を多く取り過ぎると今度は集中力が削られていきますから。

それにもっとやりたいことがたくさんあります。

 

いまは、中国語に対する情熱を消さないこと

そして中国語の基礎が完成するまで細く長くの学習を続けていくこと

この二つが大事だと思っています。

※後者に関する補足。外国語の基礎の完成とは、認知の面ではその言語の有機的な繋がりが見えていること、技量の面ではある程度自在に使いこなせるようになること。

 つまり「分かること」と「使えること」の二つだと思っていますが、これが出来るようになったら(中検準一級合格程度と想定)、ひとまず中国語の学習はやめていいと思っています。

 

さしあたり中国語に関してはそんなところです。

 

 

そしてもうひとつ。

前回の記事で書いた通り、語学の肝はやはり耳だと考えています。

今回は聴き取りについての気づきを簡単に書きます。 

 

英語で聴解能力といえば、ずっとListening(聴き取り)だと思っていました。

昭和から平成一桁くらいの頃まではHearing(聴力)と呼ばれていたイメージがありますが、

ある時期からはListeningと呼ばれることが増えて、いまは殆ど全ての学習者がそう呼んでいるようです。 

私も、Hearingという言葉を使っている人を見ると「あ、この人間違って使ってる」と思っていました(笑)

 

しかし最近は、一周回ってHearingでも良いのではないか?と思うようになっています。

どういうことかというと、ある程度までその言語に習熟してくると、

試験の場でも外国語の聴き取りというより、聴力検査を受けている感覚になってきます。

いや、むしろそういう感覚で受けた方が点数は伸びますし実地でも使えるようになります。

確実に。

 

たとえば先日のTOEICはそんな感覚でした。

そして、これは試験の難易度が上がっても同様です。 

仮にケンブリッジ英検CPEを受けたとしても、力のある人であればHearingの感覚で問題にあたることが出来ると思っています。

 

習得期間中は、Listeningの姿勢も大事です。

耳から入ってくる言葉を瞬時に分解・再構築しながら理解していくこと(脳が覚醒していく感覚を得られるこの作業がとても面白い)。

しかしリラックスした状態で“普通に”聴き取れるHearingの姿勢も必要で、

習熟度が上がるにつれその割合を徐々に増やしていくこと。

この姿勢です。

まあ私は「この人間違って使ってる」と思われたくないので人に対してはListeningで統一しますが(恥の文化)。

 

最近の気づきとしてはこれが一番大きいものかも知れません。

こういう気づきがあると世界の見え方が違ってくるのが面白いですね。 

今後もなにかあれば共有します。

 

 

さて、思ったより長くなってしまいましたが本日はここまで。

それではまた。

語学習得に必要な耳について

こんにちは。

 

掲題の件に関して、先ほど下のアベマの動画を見ていて思ったことを書いていきます。

 

youtu.be

 

こちらの動画は主に幼児期~就学期のバイリンガル教育について議論しているものですが、その中で大人の外国語学習にも繋がりそうな話がありました。 

動画の16:46あたりで留学支援事業を行っている方が、「僕らの結論としては、物心つく前に耳とかは鍛えといたら良い」ということを仰っています。

 

ということで、語学習得に必要な耳について私見を書いていきます。

まず端的に語学の耳が完成している状態というのは、

「ある外国語を聴いたとき、それに瞬時に反応できて且つ意味も分かる」

ということとします。

 

”完成”と書きましたが、これには二段階のレベルがあると思っています。 

第一段階は綺麗に発音されたものは聴き取れる段階(一応の完成)

第二段階はネイティブがごく自然に発音したものも分かる段階(本当の完成)

この二つです。

そして上の動画で言及されている耳とは後者のことを言っているものと思われます。

そしてこれを習得しているかはどうかはその後の語学習得に大きく影響してくるのではと。

 

 

まずこの二つの違いは、例えば英語でいうとどういったものなのでしょうか?

よさげな動画がありましたのでまずはこちらをご覧下さい。

 

youtu.be

 

黒人の方はMCということもありかなりクリアに発音されていますね。

ある程度の英語力のある方なら聴き取りに苦労することはないはずです。

そしてもう一方の白人の方が話しているのが完全にネイティブの言葉ですね。

 

念のためにもうひとつ貼っておきます。

 

youtu.be

 

ベゾスは公に話す機会も多いでしょうから、さすがに聴き取りやすい英語になっています。

そしてもう一人の作業者の英語はやはり難しく感じますね。 

聞き逃した箇所をもう一度集中して聴けばなんとか大意は分かるというレベル。

 

 

前者が聴き取りやすいのはある意味当然です。

彼らは自分の言葉を出来るだけ多くの人に届けようとしていますから、

”チューニング”された英語を話します。

TOEICにしろ、IELTSにしろ、資格試験ではこの範疇の英語を超えません。

 

後者は違います。

表現が難しいとかそういった話でもなく、

音として何か質的な差異を感じます。 

 

こういった英語には特徴があります。

・自分が今まで勉強してきた英語とは全く違うという感覚がある(+絶望感含め笑)

・ごく自然に肩の力を抜いて発音されている

・大衆ではなくある特定の人物・小集団に言葉を伝えようとしている

 

要するに「質的な差異」の正体は、

単に前者と後者は目的が異なるため異なる話し方になっているということでしょう。

 

ですがこれが本当の言葉とも思います。

本来言語は自分の所属する小さな集団内での意思疎通を図るために発達してきたものです(裏を返せば他集団との差別化ということになります)。

即ち、こういった言葉も含めて理解出来るようになることが、彼らの仲間に入るために求められる条件だと。 

 

 

ではどうやってこの水準に到達するか?

そもそも私もそこに至ってはいませんので推測でしか言えませんが、

現時点でもある種の確信は持っています。

 

・肩の力を抜いてネイティブ感覚で英語に触れる

・量をこなして故松本道弘氏の言うFrame of reference(認知の枠組み)の強化拡大

・単語ではなくメッセージを掴む

 

この三つでしょう。

基本的にはいまの学習姿勢のままで間違いないと思っていますが、何かが足りません。

きっと大事なのはテクニックや知識の類いではなく、肩の力を抜くということなのでしょう。

そして言葉を発する時点で誰かに伝えたい何らかのメッセージがあるということです。

それを掴むこと。

 

後者の言葉が分かるようになればnear-native(C2の上位)水準だと思いますので

私にとっても究極の目標と言えます。

究極の目標といいつつ、すぐ近くにある気もしています。

本当はその世界は目の前に拡がっているのではと。

最初のアベマの動画の話に戻りますが、ネイティブの子供なら幼児期に自然に習得しているものですからね。

 

「臨界期を過ぎると難しい」という意見もあるでしょうが、

臨界期前後で決定的に違うのは言葉に対する姿勢だと思うのです。

臨界期を超えても、少なくとも可能性のある人はあるものだと思います。

もっと言えば、姿勢を変えることさえ出来れば多くの人が到達可能なことなのではとも。

 

今後はこういったことを(頭の片隅に)意識した上で、また英語と中国語に触れてみたいと思います。

 

 

本日はここまで。

それではまた。